弥富市 中3刺殺について 思い出される衝撃の悲しい記憶

非常に悲しい事件が起きました。だれも幸せにならないニュースです。

2021年11月24日、愛知県弥富市の中学校で3年生の男子が同級生を刺し、被害者同級生が命を落としたというニュースが全国に報道されました。

様々な推測や思いがSNS上でも飛び交っていますが、筆者も自分なりにこのニュースで思うところがある一人です。

筆者が注目したのは、加害者生徒が「おとなしい子だった。」という情報。なぜならこの情報を含めたニュースを見る度、いつも筆者の知人が思い出されるからです。加害者生徒と筆者の知人にはこの共通点があり、筆者にとってとても悲しかった出来事がリンクするのです。

その過去を書きつつ、このような事件がもう起こらないよう願う一人として、全国の教員、保護者、同じ悩みを抱える児童生徒に知っておいてほしいことがあります。

報道に関するリンク→https://www.fnn.jp/articles/-/276992

Stressed 3d man sitting over white background.

「自分が知っている知人が、人の命を奪った」 衝撃の過去の記憶

忘れもしない自分が23才の頃、衝撃のニュースが目に飛び込んだ。23才の男が車で人を轢いた後、その人を山中に連れ出し、死に至らしめたという、ニュースだった。容疑は殺人と強姦致死だということだった。

加害者男性の名前を見る。どこかで聞いたことのある名前。最初はピンと来なかった。悲しいニュースで、とんでもない人間がいるものだと感じたのみだった。

でもどこか腑に落ちない。そういえば…。

 

その日の夜、詳しい情報を集めてみた。やっぱり思った通り。自分が知っている人間だったのだ。

 

どういう関係だったかというと、小中学校でスポーツの習い事が一緒だったのだ。学校は違う学校だったが、一緒のチームでいつも練習し、大会に出て、それなりに一緒の時間を共に過ごした仲だった。中学卒業と退団を期に、そこから会ったことはなかった。

当時の彼は非常におとなしい人物で、自分の思いを進んで発信する方ではなかった。主に聞き役で、話しかけられた時に応える側が多かった。もちろんそんなニュースを見ることになるなど、想像もし得なかった。知っている人間が人の命を奪ったなんて誰しもが聞きたくないし、本当に悲しい気持ちになるし、自分自身の生き方考え方にまで影響を及ぼす、信じられないニュースだった。

しかし、彼が犯した犯罪のニュースを見たときに、筆者は二つの出来事を思い出した。

 

一つ目は、彼と一緒だったスポーツ少年団での彼のプレースタイルだ。彼のプレーはいわゆる「危ないプレー」が多かった。どういうことかと言うと、多くの人が「これ以上は自分や相手のケガにつながる」とブレーキがかかる場面で全くブレーキがかからなかったということだ。上手な人間は相手がそう感じることをわかった上でわざとやって、自分が優位にプレーすることにつなげるものだが、彼はそうではなかった。相手(筆者)がそう思っていることは全く分かっていないのだ。

 

二つ目は、彼が中学生の時のある出来事。いつも通り習い事に行ったとき、彼がいつもよりおとなしい(ふさぎこんでいる?)と感じたことがあった。彼と同じ中学校の同級生に話を聞くと、学校で急にキレて暴力をふるってしまうという出来事があったというのだ。しかも、その時に相手に嫌なことをされた訳ではなく、嫌なことをされたことが溜まりに溜まって思い出し、いきなり暴力に訴えるに至ったらしい。その後彼に話しかけた時、「いや、何でもね~から。」と無表情に一言だけ語った彼の顔は忘れられない。

 

もちろんそんなエピソードが彼の全てではないが、悲しいかな、ニュースがニュースなだけにそういったことがクローズアップされてしまう。

教員という立場から考えた、彼が起こした事件

筆者が23才だった当時すでに教員だった筆者は、自分の中の記憶にある彼の小中学生の時の姿と、筆者が受け持ち目の前で見てきた児童生徒をリンクさせながら、考えさせられた。一体どうしてこういう事件が起きたのかと。こんな悲しいことになる前に防げなかったのかと。

まずは、「おとなしい」という子どもに対しての見方を見直すきっかけとなった。

「おとなしい」と「無個性・無感情」とは違う。言葉や表情にサインが見えない人間にだって、感じていることはあるし思っていることもある。不満に思った時にそれを表に出せず、自分の内に飲み込む人だっている。当たり前のことなのだが、実は学校生活において「おとなしい子の思いや感情」は見逃されがちなのではないかと思ったのだ。そうした思いの蓄積や溜め込みが、爆発を生むことになる。発信と受信との双方向のバランスによって、心の平穏が保たれる、と。もっと一人一人に話しかけ、少しでもいいから思いを伝える機会を作ることを大事にしようと思ったことは言うまでもない。

余談だが、いつも休み時間に一人で過ごしている自分のクラスの子によく話しかけていた。ある日、「先生、私一人で○○したいの。気にかけないでくれる?」と言われたことがあった。ごめんね。でもそれでいいんだ。先生は君が知りたかったんだ。

そして、「逃げ道を作る」ことが大切だと思ったことだ。

当時、彼は中学生。学校で嫌なことがあったとしても、彼は少年団では私と会話ができていた。朧気ではあるが、毎回お母さんも少年団の練習の場に来ていた。今思えば、自分が過ごす場として、上手くいかなかった場とは違う場があることは非常に大事なことだと思う。簡単に言えば気分転換になる。「まだ自分にはここがある。」と感じれさえすれば、自分を表現できる場が一つでもあれば、おかしくなる可能性は低くなるはずだ。目の前に立ちはだかる壁にチャレンジすることは前段として大事にすることは必要だ。でも、我々大人が見極めなければいけない。つらいと感じる人間に対して、「これでもいいんだよ。逃げてもいいんだよ。こういう道だってあるんだよ。」と提示することも同じくらい大事。踏ん張れるか違う道にするか選ぶのは子どもだ。家でもいい。学校でもいい。友達と過ごす公園でもいい。習い事の場でもいい。親戚祖父母の家でもいい。場が多ければ多いほどいい。その場を、共に横に寄り添うだけでいいんだ。

彼が事件を起こした時の身の周りは知るべくもないが、「友達とは疎遠、職場や家庭に居場所が無く、自分が大人になれば両親祖父母に頼れる状況にも無い。」もし、こんな状況があったとすれば、誰であっても自分自身を見失うことは想像に難くないのではないのだろうか。

今回の中3刺殺事件で思うこと

もちろん大前提として、殺人もいじめもどちらも誰も幸せにならないし、認められるべきではない。絶対に起きてはいけないことだと思う。どんな理由があったかも分からないし、どこまで加害者児童が追い込まれていた状況なのかも知る由もない。本当の細かいいきさつや経緯などは報道では明らかにされない(被害者の思いについても)と思うが、人が一人命を落としている時点でよかったことや解決なんてものはありはしない。当人たちや家族のみならず、彼らを知る人や果てはこの報道を見た全ての人が、悲しい気持ちに襲われ、負の螺旋が延々と続くだけになってしまうことは間違いない。

ただ、この事件を、今や未来を生きる私たちが、二度と同じ事件が起こらないように教訓とするならば、変えられることがたくさんあるはずだ。責任がどこにあるとか言っている時点で終わってる。決して他人事ではない。彼に関わる全ての大人に、もっと極端に言えば社会に情報を発信できるような現代を生きる我々全ての大人に、責任があると思う。その対策は、危険物を持ち込まないなどという即時効果のみを狙ったとんでもなく薄っぺらい管理などでは決してない。というかそんなこと学校が絶対にできるわけがない。

まずは、思いを表現する場を奪わないこと。学校だけに期待してはいけない。なぜならこんなにも今まで裏切られたという人がいるのだ。歴史が物語っている。学校はもはや聖地ではない。変わらないよ。それが真実。だから、出会う場所ではなく、出会う人に期待した方がいい。ある教員に出会って救われたという人もいる。それも真実。元教員でおかしなことを言うが、人を選んでいい。合わない人、合わない環境あるから。学校じゃなくてもいい。(いや出会う先生がよければそれが一番なんだけど。そうした先生はちゃんといますよ。)最も長くその子を見てきた親御さん兄妹がいる家庭はもちろん、習い事でも、近所のおじさんでもいい。何でもいい。子どもの思いが表現できる、訴えられる場を0にしてはいけない。

そして、我々が子どもに対して「あなたはひとりじゃない」と言える大人になること。せめて目の前にいる人、自分の近しい人には。人に任せず、目を背けず、教員も、親も、地域も、全ての大人が自分が関わる目の前の人間を大切にできるようにならなければいけない。なぜなら、子どもはそれを見て育つから。子どもに見せたい背中をまず作ることからだ。じゃないと、反面教師でいい方にいけばまだいいが、全てに絶望して、あきらめる子どもにしてしまう可能性があるから。子どもにどんなレールを走らせるのかではなく、どんなレールを見せるか。どんな駅を見せるか。子どもは自分で選ぶよ。選んでいるように見えなくても、見せられたものを感じ取って、子どもは自分の思いを生むから。

自分も目の前にいる自分の子ども、周りにいる人をあらためて大事にしようと思わされた。もうこんな悲しい思いを二度としないように。

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